親離れ 子離れ【親同士が代理お見合いするというニュースを見て】

親同士が代理お見合い? 「放っておけない」「藁をもつかむ気持ち」…奈良で80人が参加

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140417/wlf14041710350009-n1.htm

 

自分の子供がいつまでも独身でフラフラしている

 

未婚、晩婚化が進む中、日本中の親がそんな悩みを抱えているのかもしれない。

子どものために力になりたいというのもまた親の気持ちであることは間違いない。

しかし、これは些か過干渉気味ではないだろうか。

 

親と子、血は繋がっていても他人であるというのは私の持論である。

他人というと日本語的に冷たいような印象を受けるかもしれないが、個別の考え方を持った存在と考えると親と子ですら「他の人」なのだと思っている。

 

家族という群れの中、人格形成段階のある時期から子どもは親の言うことを拒否するようになってくる。

親の言うことを拒否するというのは「子の自我」の正常な発達の指標となる。

拒否は自我の同化を防ぐ対処法。

反抗期を境に譲れぬ自我が子どもにも現れたのである。

 

多くの正常な親は子どもの「ささやかな抵抗、自我の芽生え」を好意的に受け止める。

自分の意見をもつくらいに成長したのかと嬉しさを感じる反面、子供が自らの手を離れていく悲しさも感じる。

しかしその悲しさに支配されることは決してありえない。

我が子の成長を理解し、これを機に子どもとの関係をより「対話重視」にしていこうなどと決意を新たにする。

 

正常な感覚の親を持った子どもは親との対話の中で認められたり、諭されながらより強固で肯定感を持った自我を形成していく。

互いが独立した思考を持った「他の人」であり、だからこそ一方的な保護ではなく互いに尊重し合える親子関係がそこに生まれるのだろう。

 

だが、一部の親は我が子の「ささやかな抵抗、自我の芽生え」を自分への「攻撃」だと認識してしまう。

攻撃されたからにはねじ伏せなくてはいけない。

そういった歪んだ思考がこのタイプの親の中には存在する。

子どものやることを徹底的に否定し、自分の言う通りにすることを文字通り「強制」するのだ。

友人関係の否定、恋愛関係の否定、能力の否定、自我の否定。

自らを否定され続けた子どもは肯定的な自我など持てるはずもなく、あらゆる社会性を欠いたタイプへと分化していく。(もちろん親の姿を反面教師に正常な自我を形成できる子も存在しますよ)

 

こういった親に育てられた子どもは圧倒的に「自己肯定感」が不足している。

長年のカウンセリングの経験で出会った多くの悩みを抱えた人々が、同時に自己肯定感の不足も抱えていた。

 

自らには魅力や能力がないと考え、そういったものが求められる場を回避する(攻撃する)人。

自らを肯定する根拠を持たないため、親しい人間に根拠の提示を求め続ける依存的な人。(特に恋愛関係で顕著。相手の気持を確認し続けたり、少しでも自分を否定されるとヒステリーを起こしてしまう)

 

何故、一部の親は子どもの自我を認めることが出来ないのだろうか。

私は一部の親の「親子関係」に対する認識がズレていることが原因だと考えている。

彼らは自分と子どもの境界が非常に曖昧、もしくは完全に同化してしまっているのだろう。

 

親と子の同化はまさしく「親による我が子の所有」である。

親の忠実な所有物である子どもは「親の意見に逆らってはいけない」のだ。

 

また、こういった親は愛情表現においても著しい偏りを見せる傾向にある。

自分の思う通りにするものを褒め、それ以外は全てを否定する。

愛情が一貫しないのである。

愛情が一貫しない親に育てられた子どもは常に親の顔色をうかがい、大人になっても人の顔色をうかがい続ける。

 

実は近年騒がれているモンスターペアレントも上記のようなタイプの親であることが多い。

彼らは自分と子どもを切り離せていないので、子供が受けた些細な被害を自分への攻撃だと認識してしまうのだ。

「過剰な親子愛」という行き過ぎた愛情の問題だと捉えられがちだが、実際には「異常な親子関係」による二次被害なのである。

 

 

以上を踏まえた上でもう一度考えてみたい。

果たして子供の結婚問題は親が率先して踏み込んでいくべき問題なのであろうか。

そこまで親に面倒を見てもらわなければいけない依存的な子ども(色々なケースが有ると思うが)は正常な自我を形成できているのであろうか。

 

過干渉な親、依存的な子。

結婚問題以外に見直す点があるのではと思えてならない。